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おしらせ

ノーハウへの軌跡<1>

みなさんこんにちは パールトーンHP管理人です。

弊社今年が創業90周年という事で、昔の資料を整理していましたら、昭和の終わりくらいにサンケイ新聞さまでご掲載いただいていた【企業ドラマシリーズ】ノーハウの軌跡という連続ものの記事が出てきました。

 

読んでみたところ、企業ドラマシリーズということらしく、わかりやすくおもしろい記事でしたので記事自体は古いのですが、全四回シリーズを当時のままご紹介させていただきます。

それでははじまりはじまり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和三十五、六年ごろだっただろうか。十月二十二日の時代祭。“千年の行列”が都大路を進んでいた。その真っ最中に非情の雨。維新勤王隊から王朝の武官・婦人列まで、うらみっこなしのズブぬれになった。関白秀吉の飾り立てた牛車もしょぼくれてしまった。

 

お祭りすんで日が過ぎて、ソロバンはじくまでもなく衣装の修理代がかさむ。それだけではない。こんなことが続けば、衣装そのものが台なしになりかねない。

 

「何とかいい手はないものか」平安神宮では宮司以下、八万手をつくして研究を始めた。そんなとき、ある装束業者からこうすすめられた。

 

「パールトーン加工をしてみてはどうだろうか」

 

もの知りの宮司もさすがにパールトーンまでは知らなかった。

 

「パールトーン」…。調べてみると実績があった。戦前すでに、徳川家の宝物類にパールトーン加工なるものをやっている。戦後は旧柳川藩主立花家の秘蔵品である甲冑衣装にもこれを手がけている。「やってみるか」ということになった。

 

当時のパールトーン社は、創業者國松勇(昭和四十五年死去)が経営する個人会社に過ぎなかった。そこへ天下の平安神宮からお呼びがかかった。それも大切な時代祭の衣装の、大げさにいえば一企業の生死を賭けた仕事である。

 

ここらでパールトーン加工のあらましを説明しておかなければなるまい。もともと國松勇は、旧佐世保女専で応用化学の教師をしていた。佐世保はご存じの軍港である。あるとき海軍の上級将校からこんな相談を持ちかけられた。

 

「一航海終えて帰ってくると、軍服は湿気で重くなり、勲章も錆びてしまう。揮水性があって、酸化防止もできる方法はないものだろうか」

 

國松勇はこれに挑戦した。昭和四年、佐世保で「ライオンプレス」社を創立。旧海軍の“御用メーカー”水交社の特約店としてスタートする。軍服から将校マント、大礼服、通常の礼服、それに将校の家族の和装までに“ライオンプレス加工”を施した。単なる防水加工とはちがう。通気性のある加工という点で、当時でも画期的だった。

 

この技術が進歩、改良を重ねてパールトーン加工になる。湿気を入れない。伸縮しない。染かえもできるし、洗たくもできる。酸化しやすい綸子や、伸びやすい絞りには絶対の威力を発揮する。

 

「三十四、五年ごろから生地の風あいにも満足できるようになった。色つやも加工前と変わらない。四十年ごろからこの業界ではこれが一番とされるようになった」

 

三十八歳の二代目社長・國松照朗(勇の次男)の自信は深まるばかり。パールトーン加工は高級呉服のガード役といえようか。

 

さて平安神宮では三十七年から四十二年ごろにかけて、時代祭に使うすべての衣装にパールトーン加工を施した。

 

「ヨロイの糸まで加工の効果がある。糸にパールトーン加工すると泥水がかかっても水はけがいい。扇子などはカビが生えても気にしないですむ」(寺田和成・平安神宮権祢宜)。

 

もう手放しのべたほめなのだ。この実績がさらにパールトーンの名を高めることになった。八坂神社雅楽衣装(三十八年)、京都御所葵祭衣装(四十二年)、平安神宮孝明天皇御衣(四十三年)、明治神宮明治天皇御衣(同)などをつぎつぎと手がけて、保存衣装、古代衣装の恒久化を目ざす。

 

業務の主力はもちろん一般の呉服である。とくに美容室などの貸衣装用にうけた。保存も楽だし、傷みも少ない。汚れにくい。かりに汚れても簡単に落とせる。祇園の芸子衆にも重宝がられた。長襦袢までパールトーン加工したのを着こむ。酒席で少々汚されてもこれだと安心できる。たまに加工していない座敷着で出かけたときなど、「客よりもキモノが心配」なけしからん心境になったりするという。

 

佐世保から東京へ移り、キモノの本場の京都へ進出したのは三十五年だった。いま、右京区西院溝崎町にその本拠を構える。「株式会社パールトーン」になったのが四十八年七月。年商一億八千万円に達したいまも、資本金五百万円、従業員二十三人。中小企業というよりも小企業というべきだろう。

 

しかし、上田善、岡慶、丸居、市田、竜村美術織物などの京都の一流どころをはじめとして、呉服、帯、織物などのメーカー、呉服専門店など合わせて約七百社との取引がある。いまではこれらほとんどのメーカーが高級品はあらかじめパールトーン加工してから市場へ出すようになった。加工もれの商品は呉服店から回されてくる。すでに仕立てたり着用したりしているものでも、畳んだそのままで加工できる。

 

高級呉服ほど弱点が多い。それを克服したいま、國松照朗はキモノそのものの振興を目ざす。そこまで手を広げることができるようになった。とにかく、まずキモノを多用する風潮を、現代社会の中でつくり出さなければならない。

<2>に続く。

【サンケイ新聞掲載記事】

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